地域史の研究をされている浅尾 悟さんが、アメリカの「戦略爆撃団調査報告」の調査に取り組まれていて、その中から新しい事実を見つけられています。
鈴鹿市稲生町に残っているコンクリート基礎は、これまで鈴鹿海軍航空隊の疎開倉庫とされてきましたが、三菱重工業鈴鹿工場の疎開工場跡だったことが判明しました。コンクリート基礎は2基残っていますが、東側が第一工場、西側が第二工場の基礎です。さらに近くの丘陵から別の工場のコンクリート面、コンプレッサー跡地などが確認できました。伊奈富神社北方にも第3~4工場の敷地が残っていることも確認できました。
また、鈴鹿市東玉垣町で「防空壕」とされてきた戦争遺跡も、第一鈴鹿海軍航空基地の周囲につくられた機銃砲台の一つである、第二機銃砲台の弾薬庫だとわかりました。
「戦略爆撃団調査報告」は膨大で、資料を見つけるまでが大変ですが、以前から貴重な記録が埋もれていて各地で研究が進められています。
浅尾さんは、米軍資料の三菱重工業鈴鹿工場の部分を資料化され、新しい事実をたくさん見つけられています。今後の進展が楽しみです。
3月30日(土)に実行委員会形式で、第7回春まつりを桜の森公園で開催しました。残念ながら桜の開花は見られませんでしたが、穏やかな天候にも恵まれ、大勢の親子連れでにぎわいました。
イベント会場では、小さな子どもたちによるダンスから大学生による演奏、そしてライブがにぎやかにおこなわれました。
歴史に学ぶコーナーでは、鈴鹿市の戦争遺跡の写真パネルが多数展示され、実行委員がわかりやすく説明をしました。その後、約30名の参加者と一緒に、現在も残る海軍航空隊の移設正門と番兵塔を見学し、かつて巨大格納庫群があった場所(現在は住宅地)まで足を延ばしました。
自由広場では、航空隊に因んで「空に遊ぶ」コーナーが催され、竹とんぼ・ぐにゃぐにゃ凧、シャボン玉などおもしろい遊びがおこなわれました。参加して下さった皆さま、実行委員の皆さま、どうもありがとうございました。
鈴鹿市中冨田山地区に残っている民間防空壕を、地域史研究者の浅尾悟さんが測量され、当会の桐生が協力しました。
この防空壕は山地区にお住まいだった一人の方が独力で掘り、近所の人も入ったそうです。
この地下壕はコの字型で、入り口から奥までは5.5m、東西の長さは13.7mで、西側の入り口は意図的に埋められていますが、東側入り口と内部は良く残っています。
西側の入り口を廃棄物などで埋めたのは、集落から山に上がってくると入り口が良く見えたために、子どもたちが入り込んで事故になるのを心配したためだそうです。
とても保存状態の良い民間防空壕なので、大切に保存・活用していきたいです。
鈴鹿市が誕生した12月1日前後に、毎年開催している市制記念の講演会。
81周年の今年は、12月9日にジェフリーすずかで開催し、戦争遺跡研究者で元中学教諭の浅尾悟さんに「鈴鹿市の発足と鈴鹿海軍工廠」というテーマで、お話をしていただきました。
内田大佐の主導による鈴鹿海軍工廠の設立、今も残る関連施設、2町12村の大合併による鈴鹿市の誕生、戦後の跡地利用、文化財指定への行政の消極姿勢、など映像や数字を使ったわかりやすい話でした。会場には海軍工廠宿舎で使われた食器など浅尾さんが約30年かけて集めた品々も展示されました。30数人の来場者は興味深く聴き、資料を見学していました。
鈴鹿市の平和教育班に所属されている小中学校の先生方と3回目の平和学習会を行い、石薬師地区の戦争遺跡の見学をしました。
石薬師地区は地域の方の情報のおかげで、今年に入って戦争遺跡の確認が倍増しています。この日は石薬師に作られた陸軍第一気象連隊の本部前の円形池、倉庫のコンクリート基礎、二つの射撃場を見学しました。
「こんな戦争遺跡が残っているとは知らなかった」「陸軍第一気象連隊のことがわかった」と口々に言われる先生方が、次は子どもたちに発信して下さるので、嬉しいですし楽しみです。次回は戦争遺跡でどのような授業をするかを協議されるそうで、教材化や授業化を期待しています。これからも出前授業のご要望があればお応えしていきたいです。
12月2日(土)にジェフリー鈴鹿で開催されたジェフリーフェスタでの「九条の会すずか」のコーナーで、戦争遺跡のパネルを展示しました。
九条の会すずかは、亀山であった列車銃撃の朗読劇を作られ、この日に初演を迎えたことで、「亀山九条の会」が作った列車銃撃のパネルも展示され、奇しくも平和三団体の展示がそろいました。
これからも活動の連携を深めていきたいです。
国分町の地下壕を、地域史研究者の浅尾悟さんが測量され、当会の桐生が協力しました。
ここには北、中央、南の3つの穴が並んで残っています。
3つの穴とも入り口の高さは1.2mありますが、崩落で開口部は半分ほどなので内部に入りづらい状態です。
そのため、内部の様子はよくわかりませんが、状況から北と中央の穴がコの字型地下壕の入り口で、南の穴は別の地下壕の入り口らしいことがわかりました。
規模としては小さいですが、聞き取りによると、戦後すぐの時期からこの3つの穴があったそうです。紀北町(北牟婁郡)に現存する民間防空壕と良く似ているため、この地下壕も戦争中に掘られた民間防空壕だと考えられます。
東旭が丘の宅地造成工事で、地中から鈴鹿海軍航空隊の貯水槽と思われる円形のコンクリート遺構が出てきたことがわかり、22日に有志で調査をおこないました。
当時の航空写真で存在は知られていましたが、地中に埋まっていたので今まで調査をおこなっていませんでした。
円形水槽のすぐ北には、鈴鹿海軍航空隊の射撃練習場が造られていて、その外壁と考えられるコンクリート構造物が残っていますが、今回の工事で土が少し取り除かれて、これまで以上に外形がわかるようになっていました。
他の県や市町では、このような構造物が出た場合は埋蔵文化財担当まで業者が連絡したり、遺跡発見の届け出が必要になったりする所が増えてきていますが、鈴鹿市の埋蔵文化財担当が対処した形跡はなく、この戦争遺跡は消滅しました。
鈴鹿市に限らず、一部の市町を除いて三重県の戦争遺跡への認識は、愛知や滋賀と比べてもかなり低く、他県から取り残されそうで心配です。
水槽はほぼ完全に残っていて、内径が10m、深さ1mで、水槽にしては水深が浅いのが課題です。近くに同じ構造のものがあと二つあったことが航空写真からわかっていますが、今回の工事では出土しませんでした。
10月15日(日)に鈴鹿ハンターのセンターコートで、恒例の「風の街の文化祭 市民交流広場」が開催されました。
私たちも例年のように「鈴鹿市の戦争遺跡写真パネル展」をおこない、戦争遺跡の写真パネルを展示したり、関連書籍の販売をしたりしました。
九条の会すずか主催「戦争なんか大きらい!平和のメッセージ展2023」が鈴鹿市立図書館視聴覚室で3年ぶりに開催されました。
その「鈴鹿にも戦争があった」コーナーに、協力参加として戦争遺跡パネルを展示しました。
また19日午後には、当会世話人の桐生さんが「鈴鹿にも戦争があった」というテーマでこれまでの活動や思いを話しました。
パネル展示では、大人だけでなく子どもたちも見に来て、自宅のそばに軍の施設があることを見つけたりしながら見ていたのが印象的でした。
7月26日に、鈴鹿市平和教育班に所属されている小中学校の先生方と2回目の平和学習会を行いました。この日は加佐登小学校校区を中心に、陸軍第一航空軍教育隊、陸軍北伊勢飛行場、陸軍鈴鹿飛行場などの戦争遺跡を見学しました。
敗戦直前に陸軍北伊勢飛行場近くに墜落し、敗戦のため機体が回収されることなく残ったそうです。
ジュラルミン製なので、大きさの割にとても軽かったのが印象的でした。機体片を大切に保管されている家には、近くにあった「陸軍用地」と刻まれた境界石柱1本も大事にされていて貴重です。
地域の方を訪ねて話を聞いたり、自分の足で地域を歩いたりする大切さを先生たちにお伝えしました。
とても暑い日でしたが、皆さん熱心に学習されていました。お疲れさまでした。
この日は戦争遺跡だけでなく、校区内で保管されている陸軍の飛行機の墜落機体片も見せて頂きました。
今年も石薬師小学校で出前授業をできました。今年は5年生で、1限目は戦争中の石薬師について、2限目は戦争中の鈴鹿市についてを学習しました。
まず、石薬師地区に残っているたくさんの戦争遺跡を紹介しました。これらは陸軍第一気象連隊に関わるもので、石薬師にものすごい軍事施設があったことに子どもたちは驚いていました。中には、自分の家の近くにあるものが戦争に関わるものだったと知って驚く子どももいました。
次に戦争中の鈴鹿市の学習では、陸軍第一気象連隊の他にもたくさんの軍事施設が市内に作られていたことを年ごとに紹介すると、広がり方がよくわかりました。そして陸軍第一気象連隊が開隊した日が、鈴鹿市ができた日と同じであること、鈴鹿市は海軍によって作られた日本最初の市であることを伝えました。
子どもたちから授業の感想を頂きましたが、その中の一つを紹介します。
「わたしは、戦争のことをまったく知らなくて、興味がなかったけど、今日の学習をしていろんなことを学んで、いろんなことを知って興味が出てきた。びっくりしたことや、初めて知ったことがたくさんありすぎて、お母さんお父さんに話したら、二人ともすごくびっくりしていた」
お伝えしたことに興味をもって下さり、それをご両親に話しているのがすばらしい「語り継ぎ」です。「知らないなら学ぼう。知っているなら伝えよう」(早乙女勝元さん)の言葉をこれからも大切にして伝えていきます。
6月7日に、鈴鹿市平和教育班に所属されている小中学校の先生方を玉垣地区の戦争遺跡へ案内し、平和学習会を行いました。
玉垣地区は、1938年の鈴鹿海軍航空隊のあと、1942年の三菱組立・整備工場と第二海軍航空廠鈴鹿支廠、1943年の第二飛行場と、日本の戦争拡大に合わせて軍事施設が作られた所で、戦争遺跡も多く残っています。
合わせて、「戦争が終わったのは8月15日だが、始まったのはいつ?」「日本が15年も戦争をしていたのはどこの国?」など、子どもたちに考えて欲しいこと、知っていてほしいことを紹介しました。
地域に残っている戦争遺跡を初めて見た先生も多く、これからどんどん地域に出て、自分で調べて教材を作って下さると嬉しいです。
平和教育班との学習会は、これからも予定されているので楽しみです。
この日は、桜の森公園を含む玉垣地区に残る戦争遺跡のほぼすべてを見学し、子どもたちの平和学習にどう使えるかのお話をしました。
当会の23年度(第15回)総会を5月21日(日)にジェフリーすずかで開催しました。38名が参加されました。
①市内にある戦争遺跡のいずれかを市の指定文化財に
②市が白子地区に構想している公共施設に平和資料館を
ということに取り組む方針を決めました。(詳しくは会報40号をご覧ください)
記念講演 「鈴鹿の戦争遺跡、そして長崎」(小河正樹さん・加奈さん)
小河加奈さんは市内の小学校6年生。お父さんの正樹さんと一緒に、昨年「原爆の被害や平和の大切さを長崎で学び、取材する親子記者事業」に中部地区代表として参加された体験を話して下さいました。
お二人は長崎に行かれる前に鈴鹿市内の戦争遺跡の学習をされ、ほぼすべての戦争遺跡を見学されて学んだことや思ったことをまとめられています。長崎には4日間滞在され、他の8地区の親子と一緒に平和式典に参加されたり、被爆された方や平和活動をされている高校生の取材をされ「親子記者新聞(『長崎ピースタイム』)」をまとめられています。
「戦争で得られるものは何もない。恨み、憎しみしか残らない。戦争とは何なのかを長崎での4日間ですごく考えた。意見が違うのは当たり前。共感できなくてもお互いを認め合い、思いやる気持ちがあれば、無駄な争いは起きない」(正樹さん)
「最初は戦争を知るのがこわかった。長崎へ行ってから、二度と戦争をしてはダメ、戦争の歴史を知ることが大切だと思った」(加奈さん)
「戦争に備えるのではない。戦争をしない努力をすることだ。戦争をしないことが日本の強さだ。憲法九条をいじっちゃダメ。一人ひとりが声を挙げていかないと未来はない」(正樹さん)
と語って下さいました。
※当日の画像は、入手でき次第アップします。